「そう。山岡君はもう帰ったの」
美津子は思い出したように言った。
「うん。おかげでひとりさ。だからあてもなくぶらついてい的たらあの易 者に出会っ,那明てね」/a>
「あの喫茶店よ」
美津子に言われて顔をあげると、黄色い看板が見えていた。
「挨拶《あいさつ》するだけなんだけど」
美津子はそう言って誘うように立ちどまった。
「付合ってくれるかい」
「一人でコーヒーを飲んだっておいしくないし」
美津子は笑った。栄介よりずっと大人《おとな》びた表情であった。
二人は自動ドアをあけて店の中へ入った。店の中は暖かく、栄介は自分が冷たい風の中で全身の筋肉をひどくこわばらせていたことに気付いた。
「ちょっと行ってくるわ。コーヒーをたのんで置いてね」
あいたテーブルにつくと、美津子はそう言いながらコートを脱いで椅子に置き、店の裏のほうへ行った。
栄介はコートのボタンを外し、ポケットから煙草《たばこ》をとりだして火をつける。ウエイトレスが来て飲物を尋ねた。
「コーヒーをふたつ」
栄介は前の椅子に置いてある美津子のコートをみつめながら言った。無造作に脱ぎ棄てたコートは、おもて地の黒と裏地の赤が不思議な形に入り混っている。
何かがはじまりかけている。
栄介は、赤と黒が作りだす奇妙な形を眺めながらそう思った。
美津子はすぐ戻って来た。
「このお店をやっているのは、私の遠い親類に当たる人なのよ」
そう言って椅子に腰をおろし、ウエイトレスが運んで来たばかりのコーヒーに砂糖を入れた。
「なぜ運勢なんか見てもらう気になったの……」
美津子は栄介をみつめて言った。
「さあね」
栄介は苦笑してみせる。
「よく見てもらうの」
「はじめてさ」
とんでもないと言うように栄介は首を振った。
「しかし、妙な気分なんだ。今でもそうなんだが、何かこう、遠い所へこれから旅行に出るような……船出の気分なんだ」
美津子はコーヒーを飲みながら、上目づかいで栄介をみつめている。
「理由は特にないんだ。だが何かしら不安なんだよ。こんなことははじめてさ」
美津子はコーヒー・カップを置いた。白く柔らかそうな指であった。
「そういう勘みたいなものは、案外よく当たるのよ。自然に感じたそういうことは、本人が一生懸命考えたことより、ずっと正しい場合があるのよ」
「あの易者の爺《じい》さんにもそう言われたよ」
「当たったの。あのお爺さんの易は」
「まあね。いきなりずばりと当てられて、ちょっとがっくりしたよ」
「でも、信用していいのかしら。ああいう人たちというのは、最初にお客を引きつけてしまうテクニックを持っているのよ」
「それにしては当たりすぎたようだ」
「だったら、もっとよく見てもらえばよかったのに」
「でも、何だか嫌《いや》な気分だった。気でね」
「少し酔ってるのよ。岩井さんて、あまりお酒が強くなさそうですもの」
「君が通りがかってくれたので助かったよ。なんだかとんでもない世界へ連れ込まれそうだった。へたをするとあの爺さんを信じ込んで、妙なことになりそうだった」